未公開写真付きここだけのプロフィール |
その後、二十歳過ぎるまで屋号「伊藤源左右門」戸主「伊藤 昭一」の息子として祖母(シノ)、母、妹(直美)の五人家族で「親不知」(おやしらず)で暮らす。
後に戸数わずか130軒ほどの小さな田舎村から
「こんなアカ抜けした好男子」が育つなんて・・・と評判になったとか・・・(笑)
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家の横を流れる外波川の橋の上。 後に(中学1年の夏)この川が氾濫して家を流されることになる。 だから子供の頃の写真は親戚から借りた、というか貰ったものです。 この写真もそうです。 |
3年生の時、担任の小松崎先生(女性)が
「トシヒロ君は詩を書くのが上手いから」
と<しの書き方>という本をくれた。以来しばらく母方の祖父と詩の文通をして誉められるのがうれしくて・・・作詞のキッカケ。
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小学校5年生の時のスナップ。 大阪の親戚のところへ遊びに行った時に従兄弟と・・ 憧れの甲子園球場にて。 |
父が友達から譲り受けたヘンなギターで練習開始。(ギター遍歴は別の機会に)
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1年、2年を過ごした歌外波中学校の
グランドにて。野球部の練習風景。 雪をはやくとかすために除雪中。 ネットのむこうは日本海です。 |
青海中学3年のスナップ。 腕時計は?・・持ってなかった?赤い靴下は母親のセンス、かな? |
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1年の6月頃から自律神経失調症、うつ病状態に。
「人はいずれ死んでしまうのなら何のために生まれて、生きてゆかねばならののか」
「見るものすべて、食べる事、息をする事すら虚しい」
約三ヶ月で自力脱出。剣道部のそれはそれはキビシイ夏合宿が効いたかな。
それからは
「ナンデモやってみよう!」
にシフトチェンジ。
上記の「解答」らしきものは以後、現れては消えてゆくを繰り返してる。
(左)長野は青木湖にてのバンガローキャンプ。
高2から数年続いた。今も流行のチューリップハット。他人と同じファッションがイヤでパンツはジーンズのうえに同じくジーンズを切って
作ったショートパンツを重ねてはいている、オシャレ!?胸ポケットのタバコは何故?
(中央)幼なじみ5人衆。このスナップを撮ってくれている「忠和」くんはすでに他界してしまいました。Tの青春は沁み過ぎます。
(右)糸魚川高校の校舎屋上にて。悪戯をして追いかけられてるのじゃありません!のどかな昼休みです。ここでよくバンドの練習をしました。
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社内旅行で福井は東尋坊にて。イカ焼きを食べるの図。 この頃がいちばん体重があった(52キロ)いまは47キロ。 |
(左)独身寮の部屋で・・風呂あがり?ふたり部屋で4畳半くらい。ハムスターを飼っていた。後ろのギターケース、派手ーーー!もうありませんーー。
(右)仕事明け?
(左)まぼろしのデビュー作、親不知情景のプロモーションの為当時、北日本放送ラジオの人気番組「八朝のサンサン・ミュージック」に出演。魚津のサンプラザにての公録。
(右)川端さんの結婚式にて。
この頃の目標は「特急列車の車掌」、年功序列だから順番が来ないとなれないのだが、車掌長が着る白い制服に憧れた。
高校野球の試合経過を車内放送したり、車内が混んでると車掌室にもお客さんを入れたり、そんな車掌だったからお客さんには可愛がられた。
さて音楽。
「親不知情景」はワンポイント契約だったからひと通り話題になって火が消えた。
それでも北陸で8000枚のセールスだからローカルヒットと言えた。
音楽状況は「サザンオールスターズ」「世良公則とツイスト」などバンド全盛時代。念願のレコードも出たし「もう、イイヤ」と思ってたのだが…。
ある時、行きつけの楽器店の店長「伊藤クン、ポプコンに曲出してくれない?」と要請あり。「出場者がバンドばっかりでつまんないから」との事。
曲が完成したのが大会の前日、無審査で「第21回ヤマハポピュラーソングコンテスト富山県大会」に出場。タイトルもその場で「サヨナラ模様」と決めたほど急な出来事だった。
やはり出場者はほとんどバンド、その音圧に圧倒されつつもシットリと歌った訳だが、「こりゃ、かなわない」と応援に来ていた同僚達と発表を待たずに富山教育文化会館を後にした。駅前の居酒屋で「お疲れさん」と酒盛りをしていた。
同僚の中でひとりだけ「最後まで見てく」というのがいて「トシヒロ、選ばれたぞ、優秀曲賞だってさ」と雪の中を知らせにきた。
そう1981年1月16日は大雪だった。
特急列車は全て運休。動いているのはローカル線のみ。審査委員長のヤマハの越智氏(名古屋支部副支部長)が後に言っていた「特急が動かないから一旦行くのを止めにしたのだが、何か胸騒ぎがしてね。前夜からローカル線を乗り継いできたんだ」
通常はグランプリ曲のみ出場する「中部、北陸大会」なのだが、この方の推薦で僕も出場することになった。
大会は4月2日。
それまでの間、名古屋支部でクリニックを受ける。サポートバンドとの音合せ。この時のディレクターが後に東京本部で僕と「Look for myself」を制作する事になる「野口義修」氏。彼とは最新アルバム「Re:generation」も作ったところだ。
この時、「サヨナラ模様」をアレンジしたのが「森田雅彦」氏。「デジタル雨」「星のステーション」etc、数多くの楽曲を提供していただいている。今回のアルバムでも「To You」「ノスタルジック メロディー」をアレンジしている。
何度かの名古屋通いの後に臨んだ「中部北陸大会」季節はずれのインフルエンザを患ってしまった僕の声はヒサン…、熱は38度以上の状態。結果はこれまた優秀曲賞。つまり第2位。しかし今度はストレートに「つま恋本選会」へ。
5月10日、静岡にある「つま恋」の空は晴天。この時期にセミの鳴き声を聞いて大感激。野口氏に引率されてサポートメンバーとの出場は遠足気分。「慰安会」と称していた。
僕は観客が多ければ多い程、歌うのが楽しいタイプ。24番目の登場、気持ちよく歌わせていただいた。会場に蝶々がとんでるのがみえた。
歌い終ると芝生の上でメンバーとビールで「カンパイ!」
グランプリだと再演しなければならないのだが、誰も思ってなかったのか、よく飲んだ。
「何か賞はもらえるかな」とは思ってたけど「中部大会で2位の曲が本選会で…」というのもあった。
ところが発表が進むに従って各レコード会社賞がどんどん僕に送られる。酔ってドキドキしてるのかよく分からない状態の中で。司会の「円広志」氏が叫んだ「グランプリは!エントリーナンバー24!『サヨナラ模様』!」
この瞬間、僕の人生は大きく変化した。
(左)高山線は猪谷駅。神岡線(今は第3セクター)の始発駅でもあります。
(右)夏の制服、場所はどこだろう…?
(左)グランプリ後の初取材のショット。ういういしいよね。Tシャツのエマニエル坊やが、時代を物語ってる!
(右)富山駅構内にて。同じ頃のショットであります。このジーパンはまだ穿けてます。
(左)ポプコングランプリの時と同じ衣装で、臨んだ初コンサート。向かって右にある「小物台」は今も使ってます。
(右)親不知の自宅にて、雪かきのショット。写真用のポーズ、本当はこの程度の積雪では雪かきはしません。